映画『ドリーム(Hidden Figures)』を見た。
もともと実話に基づいた作品が好きだが、この映画は特に印象に残った。華やかな宇宙開発の裏側で、ロケットの軌道を“手計算”していた黒人女性たちの物語。彼女たちはNASAの一員でありながら、当時は「colored computers(有色人種の計算手)」と呼ばれていた。
このエントリのタイトルにある“コンピュータ”とは、機械ではなく、人間そのもののことだったのだ。
人間のコンピュータたち
いまや「コンピュータ」といえば機械を指す。けれど1950年代までは、それは立派な職業名だった。
“ヒューマン・コンピュータ”――つまり、計算を職業とする人々。彼女たちは手で積分を解き、近似式を求め、膨大な数の軌道データを紙と鉛筆で処理していた。ロケットが飛ぶかどうかは、彼女たちの数字の正確さにかかっていた。「コンピュータがまだ人間だった頃」という副題を思いついたのは、そんな時代への敬意からだ。人間が、数字の世界で機械のように正確に働いていた時代。その姿に、どこか温かさと切なさを感じる。
IBM7090がやってきた日
映画の中盤、巨大なIBM 7090がNASAに搬入されるシーンがある。それまで人の手で行われていた計算が、これからは機械に置き換わっていく――。人間のコンピュータたちにとって、それは恐るべき“ライバルの登場”だった。
だが実際の彼女たちは、ただ怯えていたわけではない。ドロシー・ヴォーンという女性は、いち早くFORTRANを学び、仲間たちに教えた。そして新しい時代の「プログラマ」へと転身していった。機械に仕事を奪われるどころか、機械を使いこなす側になったのだ。
このエピソードを見ていると、いまのAI時代にも重なって見える。「AIが人間の仕事を奪う」と言われるたびに、“人間が機械を使いこなす”という選択肢を、私たちはもう一度思い出すべきなのかもしれない。
技術の進歩と、人間の進歩
1960年代初期、NASAはまだ人種分離と性差別の時代にあった。同じ職場で働いていても、黒人女性は白人用のトイレを使えなかった。映画の中でキャサリン・ジョンソンが、
「どうしてトイレに行くのに800メートルも走らなきゃいけないの!」
と訴える場面は、心に刺さる。電子計算機は人種を区別せずに数字を処理する。しかし、それを使う人間の社会は、まだ偏見から自由ではなかった。技術の進歩と社会の進歩――どちらが速かったのか、考えさせられる。
そして今
いま私たちは、AIという「新しいコンピュータの時代」にいる。数字を操るのはもう人間ではなく、機械でもなく、学習するソフトウェアだ。けれどその出発点に、紙と鉛筆で軌道を求めた女性たちがいたことを忘れてはいけない。
“コンピュータがまだ人間だった頃”
それは、人間が最も信頼される計算機だった時代だ。冷静で、正確で、そして誰よりも情熱的だった彼女たち。その努力の積み重ねの先に、今の私たちのテクノロジーがある。
終わりに
『ドリーム』は、ロケットの話ではなく、「人間の知恵と尊厳」の話だ。計算という、一見地味な行為の中に、こんなにも誇りが宿るとは思わなかった。彼女たちが紙の上に描いた軌道は、いまも私たちの社会のどこかに続いている気がする。
まあこのエントリもChatGPTが書いたんですけどね。